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ゆめ参加NAブログ with Paul McCartney & NA Dreamers

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ピート・ベストの解任に関するビートルズのマネージャーの手紙がオークションに!

ビートルズのマネージャーがピート・ベストをクビにしたことについての手紙が売りに出される

Beatles manager letter on Pete Best sacking for sale

ビートルズの元ドラマーが解雇された後のマネージャーからの手紙がオークションにかけられています。

ピート・ベストの解任に関するビートルズのマネージャーの手紙がオークションに!

Brian Epstein ブライアン・エプスタインは1962年1月、リバプールのキャバーン・クラブでのギグを見て、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、そしてバンドの最初のドラマーであるピート・ベストと契約した。
しかし、数ヶ月後にベストを解雇し、代わりにリンゴ・スターを起用した。

手紙は「シークレット・ビートル」と呼ばれる Joe Flannery ジョー・フラナリーに送られたもので、ファブ・フォーの名声を高める上で重要な人物だった。

昨年87歳で亡くなったフラナリー氏は1962年から1963年までバンドのブッキング・マネージャーを務めていた。

ピート・ベストの解任に関するビートルズのマネージャーの手紙がオークション

1962年9月8日、エプスタインはベストとの契約を解除したと手紙を書いた。エプスタインはその3週間前にドラマーにバンドを脱退することを伝えていた。

エプスタインは次のように書いている。「ピート・ベストがオール・スターズに加入したとマージー・ビート(Mersey Beat)紙(リバプールの音楽出版社)で読んだ。

「私は今日、彼に契約上の義務から解放されたという証明書を送りました。」

エプスタインは「ピートとグループの継続的な成功を心から願っています」と付け加えた。

手紙はフラナリー氏の家族が保管していたもので、現在は甥が売却している。

Beatles manager letter on Pete Best sacking for sale 1

Message to Ringo
競売人の Paul Fairweather ポール・フェアウェザー氏は次のように述べています。
「1959年以降、ジョーはビートルズの親しい友人であり仲間であり、1963年に彼らを急成長させて成功に導いた大きな役割を果たしました。」
「ピートが追放された時、彼らは皆嫌な思いをしたと記録に残っているので、彼が新しいバンドに加入したのを見て喜んだのは間違いない」と語った。
数々のグループで演奏した後、ベストはピート・ベスト・バンドを始める前に20年間公務員として働くために音楽業界を離れた。

1995年、ビートルズがアンソロジー1をリリースした後、ベストは売り上げから多額の支払いを受けました。アンソロジー1は、デッカとパーロフォンのレーベルのオーディションの曲を含む、ベストをドラマーとする初期のトラックをフィーチャーしていました。

今年の夏、ベストはリンゴ卿にオリーブの枝を差し出し、80歳の誕生日を祝った。

ピート・ベストからリンゴ・スター

Beatles manager letter on Pete Best sacking for sale ~ BBC NEWS



Joe Flannery Paul McCartney

ベストは以前、エプスタインが会議で自分がクビになって別のドラマーと入れ替わると話していたことを話していた。

「俺はラリーのように喜んで入ったよ。ビートルズから追い出されることを最後に考えていたんだ」と彼はBBCのドキュメンタリー番組で語っている。

「彼(エプスタイン)は言ったんだ。『ピート、どうやって言ったらいいかわからないけど、ボーイズは君を脱退させたいんだ...すでに土曜日にリンゴがバンドに参加することは決まっているんだ』って。」

「それが爆弾発言だったんだ。僕にとっては信じられないようなことだったよ...朝起きたら、これが全部なくなっていたんだ。」

オメガ・オークションに出品されているコレクションには、ポール・マッカートニーからフラナリーまでのビートルズ以降のメモも含まれています。

from Sir Paul to Flannery

10月27日火曜日に Newton-le-Willows, Merseyside マージーサイドのニュートンルウィローズで開催される Omega Auctions オメガオークションでは、ビニールレコードやその他の記念品も販売され、合計で15,000ポンドの売り上げが見込まれます

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ジョージ・ハリスンとジョン・レノンがかつて演奏したエレキギター 3230万円で落札

ジョージ・ハリスンとジョン・レノンがかつて演奏したエレキギター 3230万円で落札

ジョージ・ハリスンとジョン・レノンがかつて演奏したエレキギター 3230万円で落札

以前、ブログで、このようなオークションが開催されている事を紹介しました。

George HarrisonとJohn Lennonが所有していたギター、5500万円の価値があると鑑定

このオークションの落札がニュースになっていましたので掲載致します。



ジョージ・ハリスン(George Harrison)とジョン・レノン(John Lennon)がかつて演奏したエレキギターがオークションに出品され、237,562ポンド(約3230万円)で落札されています。

このギターはバーテル(Bartell)社製のフレットレス・エレキギターという希少なもので、1967年頃に製作され、同年にハリスンに贈られています。

オークション・ハウスのボナムズによると、このギターは1984年までハリスンのコレクションでしたが、ハリスンがハンドメイド・フィルムス製作の映画『Water』(1985年)の音楽を手掛けていた時にセッション・ギタリストのレイ・ラッセル(Ray Russell)に贈られたという。

また、このギターは、1968年にアビー・ロード・スタジオで行われた『The Kenny Everett Show』のインタビューの際に、ジョン・レノンが弾いたとされています。

このギターは2020年3月に、英BBCのアンティーク鑑定番組『アンティーク・ロードショー(Antiques Roadshow)』で取り上げられていました。

同番組は、鑑定士が英国のさまざまな地域を訪れ、地元の人々が持ち込んだ骨董品を鑑定する長寿番組。日本の『開運!なんでも鑑定団』の原型とも言われています。

番組では、同番組のアンティーク専門家ジョン・バドリーがこのギターを300,000ポンドから400,000ポンドの価値があると評価していました。

ジョージ・ハリスンとジョン・レノンがかつて演奏したエレキギター 3230万円で落札~amass



エッ!?当初の鑑定価格よりも、落札価格が安かったって…まあ、いいじゃありませんか。貰い物で、散々このギターで演奏されていたんだしね。(笑)

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リヴァプールのキャヴァーン・クラブなど、国からの助成金を受け取ることが決定

リヴァプールのキャヴァーン・クラブやリーズのブルドゥネルといったライヴハウスは新型コロナウイルスの経済的影響から救済する政府からの助成金を受け取ることが決定している。

リヴァプールのキャヴァーン・クラブなど、国からの助成金を受け取ることが決定

イギリス政府はUKのアート・文化遺産事業に総額15億7000万ポンド(約2100億円)の包括的支援策を行うことを発表していたが、そのうちの2億5700万ポンド(約350億円)が地域の1385の劇場、博物館、文化施設に助成金として交付されることが決定している。

初期のザ・ビートルズが出演したことで知られるキャヴァーン・クラブは地元ミュージシャンのパフォーマンスを撮影するための資金として52万5000ポンド(約7200万円)が交付されている。これによってパフォーマンスをオンラインで配信し、音響・照明スタッフへの仕事を提供するという。

リヴァプールのキャヴァーン・クラブなど、国からの助成金を受け取ることが決定した

UKでも地元に根ざしたライヴハウスとしてよく知られているリーズのブルドゥネルは週1で無料のイベントを開催し、生配信を行うのに22万429ポンド(約3000万円)が交付されている。

100万ポンド以下の助成金はすべて本日支払われるとのことで、ロンドンのウィッグモア・ホールやヨークシャーのスカルプチャー・パークも助成金を受け取ることが決定している。

デジタル・文化・メディア・スポーツ大臣のオリヴァー・ダウデンは次のように語っている。「この資金はこの国のソウルを形成する劇場や音楽会場、博物館、文化施設の寿命を引き伸ばすものです」

「これでこうした特別な場所を保護し、職を守り、文化分野の回復を手助けするものです」

先日、リヴァプール市長のジョー・アンダーソンは資金援助がなければ、キャヴァーン・クラブが閉店するかもしれないと語っていた。

「キャヴァーン・クラブのような国の宝を失う可能性があるということはザ・ビートルズのファンやミュージック・ラヴァー、それで生計を立てる人々など、関わるすべての人にひどいシナリオです」

キャヴァーン・クラブは新型コロナウイルスによる閉鎖のために週3万ポンド(約420万円)の赤字を出していると報じられていた。

リヴァプールのキャヴァーン・クラブなど、国からの助成金を受け取ることが決定~NME JAPAN

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ビートルズ最後の傑作『アビイ・ロード』完成までの物語

ローリングストーン誌による「歴代最高のアルバム500選 | 2020年改訂版」の関連企画として、重要作の制作過程に焦点を当てた記事を公開する。今回は5位のザ・ビートルズ『アビイ・ロード』(1969年発表)について。人間関係は最悪となっていたが、バンドは再び一つにまとまって最後の傑作を生み出した。(※以下の記事は、2011年のRS誌ビートルズ特集号が初出)

ビートルズ最後の傑作『アビイ・ロード』完成までの物語

彼らの終焉の日々を決定づける形となった軋轢の中、いよいよビートルズは自分たちの最後の、そして極めて重要な意味を持つであろう共同作業のために再結集した。それは7年に及んだ協調の一つのクライマックスだった。一緒に成長し、そして今や別々の道へと歩み出すことを始めていた4人は、やりかけのままだった作品の断片を集めなおし、それらを輝かしき記念碑へと作りかえたのだ。

ある時点まで同作は『エヴェレスト』というタイトルになる予定だった。バンドの経歴の最高峰という意味だ。『ホワイト・アルバム』の制作過程で生じていた小さくない怨嗟と、やがては来たる1970年に彼らの最後のアルバム『レット・イット・ビー』として世に出ることにもなる例の災厄のようなセッションの後では、ビートルズも慣れ親しんだ場所へと立ち戻る必要があった。解散のぎりぎり瀬戸際というこの状況で彼らは、年来のつき合いだったプロデューサーであるジョージ・マーティンを呼び戻し、古巣とも呼ぶべきスタジオへと還ることにした。アビイ・ロードだ。せめて自らの手で最後通牒を刻み込むためだった。

「昔やっていた通りにやろうと思うんだ」
ポ―ル・マッカートニーはマーティンにそう言ったのだと伝えられている。


ある意味、彼らはこの言葉通りにやった。アルバム『アビイ・ロード』は6カ月という時間をかけて少しずつ形になっていった。収録がほかの場所で行われたこともあれば、マーティン抜きという場面もあった。

1969年2月22日、ビートルズはハンブルグ時代からの旧知である鍵盤奏者のビリー・プレストンとロンドンのトライデントスタジオで再会し、ジョン・レノンの作品である、スロウでありながら躍動的なロックナンバー「アイ・ウォント・ユー」の収録から着手した。同曲のあからさまな欲望の告白は、彼ら自身の極初期の、単純だった感傷を呼び起こす契機ともなり、ある意味ではアルバム全体の“帰ってきたんだ”という空気を築いてくれもした。しかし続く2カ月ほどの間、4人揃って仕上げられるだけの時間が確保できたのは結局この一曲だけだった。それぞれが別々の仕事に散っていってしまったからだ。リンゴ・スターには映画『マジック・クリスチャン』の撮影があった。ポールはリンダ・イーストマンとの結婚を控えていたうえ、メリー・ホプキンとジャッキー・ロマックスのプロデュースも引き受けていた。同じく結婚の運びとなったジョンとヨーコ・オノとは、まずパリへと向かい、それから式のためジブラルタルまで足を伸ばし、一旦フランスに戻った後はそこからアムステルダムへ行き、同地で平和運動(ピース・ムーヴメント)を広めるべく1週間をベッドに横になったきりで過ごし、最後にウィーンに立ち寄ってからようやくロンドンへと帰ってきた。

この旅行日程に多少でも“慣れ親しんだ”ものがあったとすれば、それはジョンがこの一連をただちにビートルズのシングルとしてまとめ上げたことだろう。「ジョンとヨーコのバラード」だ。4月14日、彼はポールと二人、アビイ・ロードでの一度きりのセッションでこれをレコーディングしている。ジョージ・ハリスンとリンゴは不在だった。

ジョージ・ハリスンの覚醒

この混沌とした事態の中、ジョージはソングライターとしての成熟の気配を見せ始めていた。ジョンやポールと比べれば、この面での自分の才能についてはつねに謙虚だった彼が、である。

「実際その気にさえなれば誰にでも曲を書くことはできると思うよ」
1969年10月に行われたインタビューで彼はそうも言っている。


「僕もただ書くだけだ。歌ってのはきっと、それ自身が望んだ通りに出てくるもんなんだろうね。中にはキャッチーなものもある。『ヒア・カムズ・ザ・サン』みたいにね。だけどそうでないやつも時々ある。だからその、わかるだろう?――自分でもね、どこで空回ってるのかはよくわかってないんだよ」

次回、4月16日のバンドでのセッションは、すべてが彼の手による二曲に費やされた。「オールド・ブラウン・シュー」と初期バージョンの「サムシング」である。

続く3週間、バンドはアビイ・ロードとオリンピックの両スタジオに通い続けた。プロデューサーのクリス・トーマスとエンジニアのグリン・ジョンズと一緒に、様々な曲の一部なり断片なりに取り組んだ。「アイ・ウォント・ユー」をもう少しやり、ポールの「オー!ダーリン」にも手をつけた。リンゴの「オクトパス・ガーデン」は『レット・イット・ビー』のセッションから持ち越されていたものだった。八分にも迫ろうという「サムシング」のやりなおしには再びプレストンが参加した。それから「ユー・ノウ・マイ・ネーム」もまた部分的に取り上げている。これは1967年の中頃からずっと手をつけていた、いわば“おふざけ”だった。

相次ぐトラブルと中断、そしてセッション再開

音楽に専心していられる場面ではビートルズも順調だった。しかし一旦ほかの物事に、特に問題山積だったビジネスの部分に注意を向けなければならなくなると、事態はもうほとんど災厄みたいになった。彼らの顧問たちは互いに争い合っており、そのうえバンドは、自分たちの作品の権利を取り戻すという、勝者などハナからいないような戦いに巻き込まれてもいたのである。つい先頃ビートルズの楽曲の出版社であるノーザンソングスが、彼らからの資金援助も一切ないままに売却されてしまっていたのだ。しかも、買い戻すための計画も、以下のジョンの発言を受けてすっかり暗礁に乗り上げてしまった。

「俺はスーツ着てデブったケツの上に座ってるような連中に、間抜け扱いされるつもりはないよ」

ポールもアルバム用に起こした新曲「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」でこの事態に触れている。しかし5月6日にまさに同曲を録音したその数日後、バンドの財政面を誰に任せるかを巡って4人は喧々諤々の激論となり、アルバムの作業は突然の中断を迎えてしまった。

それからの2カ月を、彼らはばらばらに過ごした。再びそれぞれの伴侶を伴っての休暇に出かけてしまったのだ。ポールとリンダはギリシャに飛んだ。リンゴとその妻モーリーンはニューヨーク観光だ。ジョンとヨーコはモントリオールで二度目の“ベッドイン”を敢行した。二人は同地で「平和を我等に」を録音してもいる。プラスティック・オノ・バンドの名義でリリースされた最初のシングルになる。それでも作者のクレジットは“レノン&マッカートニー”となっていたのだが、それも常よりも一層、いかにも形だけという空気満々の仕儀だった。

レコーディングが開始されてから4カ月以上が経ったところで、ようやくビートルズもアルバムの実現に向けて本腰を入れ出した。ジョージ・マーティンを迎え、7月と8月の両方にわたって平日のアビイ・ロード・スタジオのスケジュールをほとんど全部押さえたのだ。だが、最初の週の収録現場にはジョンの姿が見つからなかった。ヨーコを伴ってのスコットランド旅行中に事故を起こし、負傷してしまったのだ。

しかし、この事態もほかの三人が仕事に取り掛かるのを止めさせることにはならなかった。彼らは「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」を仕上げ、続けて同じくポールの「ゴールデン・スランバー/キャリー・ザット・ウェイト」へと着手した。ポールはこの時単独で、自身の小品「ハー・マジェスティ」も録音している。このトラックは当初、長いメドレーとしてアルバムに収録しようとしていた作品群を繋ぎ合わせる、そのリンクの一部として用いられる予定になっていた。さらに、このときのセッションで三人は、ジョージの傑作「ヒア・カムズ・ザ・サン」もレコーディングしている。こちらはやはり悲惨でしかなかった経営に関する会議を作者本人がバックれている間に書かれたものだったのだが、特に同曲の持つ脆く儚げな楽天性が、ビートルたちの中でも最も自分の居場所に不満を持っていたかに見える男から出てきた事実には、胸の痛む思いを禁じ得ない。

B面メドレーの制作背景

7月9日にはジョンが復帰したのだが、彼はまだ治療中のヨーコをスタジオに一緒に連れてきた。安静にしていられるよう彼女用のベッドがしつらえられ、しかもヘッドセットまで渡されていたものだから、しようと思えばスタジオで進行する一切について、彼女がいつでも口を出せるような状況になっていた。それでもジョンがいよいよ万全となり、バンド全体で彼の「カム・トゥゲザー」に着手したのは7月もさらに進んだ21日になってからのことだった。これはシンプルでファンキーな、ジョンによる政治的団結への呼びかけである。

その次にビートルズが挑んだのは、アルバムの最後を飾る予定のメドレーだった。これこそは、彼らが芸術的な関係さえも粉々になりそうな中にあってもなお、きっちりと筋の通った、むしろ詩的ですらある何ものかを創り上げられる、それだけの力があった事実の紛うことなき証となった。彼ら自身はこれを「長いやつ」と呼んでいたのだが、このメドレーは『アビイ・ロード』のB面のほとんどを占め、一部は『ホワイト・アルバム』の頃からずっと積み残されてきたような未完成な歌の断片たちを、壮大で響きも豪勢な組曲へと生まれ変わらせ、最終的には愛を言祝ぐ賛歌となってクライマックスを迎える形となっている。

「あの頃のいかれた全部が今こうして灰になっちまってみると、あの最後のパートが、自分たちが一緒にやった中でも最高の出来だったのかも知れないなと思えてくるよ。僕にとっては、ということだけどね」

リンゴは後にこのように言っている。逆にジョンの方は、そこまで気に入るということはついになかったようである。
「あれらの曲はどれをとったって、ほかのどれかとちゃんと関係があるって訳じゃない。縒り上げる糸だって通っちゃいない。事実はただ僕らがくっつけてみたってことだけだ」。1980年に彼はそう語っている。


メドレーを支配しているのはポールによる楽曲たちだ。それゆえ当然ながら、これらを有効に機能させるため最も大きな役割を果たしているのは彼である。ビートルズはまず7月23日に、メドレーの締めとなる予定の小品に手をつけるところから始めている。当初「エンディング」と呼ばれていたこの箇所は、後には「ジ・エンド」として知られるようになる。続く数日で「サン・キング」「ミーン・ミスター・マスタード」「ポリシーン・パン」、それから「シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドー」がレコーディングされた。この段階ではバンドにもまだ、はたしてすべてがきっちりとハマってくれるものかどうかは判然としてはいなかった。最後の最後には、テープのオペレーターの犯した一つのミスが、結局彼らの一番気に入る曲の並びへと結びついた。23秒の「ハー・マジェスティ」を、誤ってメドレーの最後に繋いでしまったのだ。

「これが最後になる」と思いながら作っていた

ジョンの「ビコーズ」の収録が始まったのは8月1日。これはアルバムに収録される最後の新曲でもあった。同曲の三声コーラス部は、バンドのヴォーカリストたちがいかに素晴らしかったかを物語る好例の一つである。その先の3週間はオーバーダブと編集、そして仕上げの作業に費やされた。8月5日にはジョージが巨大なムーグシンセサイザーをスタジオに運び込んでおり、これによって、彼自身なりあるいはポールなりジョンなりが、幾つかの曲に、同楽器のすぐにはこの世のものとも思えないような響きを加味することが可能になった。

あの象徴的なジャケットのための写真撮影が行われたのは8月8日。ロンドンにしてはずいぶんと暑い日だった。ポールが裸足になっていたのはこのせいだったということも十分にあり得よう。ここまでの歳月、それこそ何千という単位の時間を過ごしてきたであろうスタジオに背を向けて歩き去っていくビートルたちの姿がフィルムの上に固定された。

アルバムでの曲の並びもまた、これが最後の作品になるだろうという示唆を、バンドから半ば無理やりに引き出したような形となった。実は当初の予定では、曲順は今私たちが知っているものとは逆となる可能性もあったのだ。しかし最終的にA面があの、黙示録を思わせさえする「アイ・ウォント・ユー」の突然の中断で終わることになり、B面の方は長大なメドレーとそのアンチコーダ(非後奏)ともいうべき「ハー・マジェスティ」で幕を閉じる形と定まった。かくして『アビイ・ロード』の両面はそれぞれ、答えなど与えられぬまま唐突に終わりを迎える今の姿と相成った。バンド自身の終焉もまた、明らかに目前に迫っていた。問題はそれがいつかということだけだ。

「実に幸せなレコードだよ」
ジョージ・マーティンは後に本作についてこう回想している。


「誰もがこれが最後になるのだなと思いながらやっていた。だからこそあれは幸せな一枚になったんだ」

ジョン・レノンの脱退宣言

9月12日のことだ。親しい記者たちとの雑談の中でジョンは、ほかの人たちともずいぶんやったけれど、と前置きしたうえで、こんなことを宣言した。
「だけどまあ、もしまたレコードを作りたくなったビートルズとやるな」
そればかりか、制作中だったドキュメンタリーフィルム『ゲット・バック』の公開予定となっている1月頃には、また全員でレコーディングしているだろうとも発言した。


これと同じ日に、興行主(プロモーター)のジョン・ブラウアーが、トロントで予定されていた自身主催の「ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァル」への出演をジョンに打診した。出演者の中にはチャック・ベリーやリトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイスらが名を連ねていた。ジョンの方もほぼ脊髄反射的に快諾し、翌日には当座寄せ集めたプラスティック・オノ・バンドを率いてカナダに飛んで、同夜のうちにもう舞台に立ち、そしてそこで唐突にビートルズを辞めることを決意した。この時のステージは、3カ月後にはもう『平和の祈りをこめて』としてリリースされる運びとなった。

戻ってきた彼はメンバーに向け、自分はもうバンドを去ることにしたと告げた。彼らはこれを極秘扱いとすることにも同意した。ちょうどマネージャーのかの悪名高きアラン・クラインが、バンドにもっと有利になるぞと嘯きながら新たな契約条件を調整している最中でもあったし、そうでなくてもジョージとリンゴは二人とも、一度辞めると宣言してから戻ってきた過去があったからである。しかしこの数日後にジョンは、シングル用の「コールド・ターキー」を、ビートルズではなくプラスティック・オノ・バンドと一緒にレコーディングしたのだった。なお、この時の同バンドのメンバーは、リンゴとエリック・クラプトン、それにビートルズの年来の盟友クラウス・フォアマンだった。

その後にも残務整理めいた仕事が幾つか続いた。まず「サムシング」のミュージックビデオが制作されたのだが、ここではバンドメンバーが、誰にせよほかのメンバーと一緒に映るようなことも一切なかった。それからファンクラブ用のクリスマスレコードも作られたが、個々が自分の分の素材を別々に送るような形だった。『レット・イット・ビー』用の最後の追加セッションは、ジョン不在のまま実施された。『アビイ・ロード』は様々な意味で、バンドが一緒になって目指してきたことの一つの到達点だった。しかし1969年10月1日に同作が店頭に並ぶ頃には、もうビートルズはすでに実質的に消滅していたのである。

ビートルズ最後の傑作『アビイ・ロード』完成までの物語~Rolling Stone

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ポールとリンゴ、ジョンの80回目の誕生日を祝福 リンゴ「いまだに君が恋しい」

ポールとリンゴ、ジョンの80回目の誕生日を祝福 リンゴ「いまだに君が恋しい」

元ビートルズのポール・マッカートニー(78)とリンゴ・スター(80)が9日までにツイッターで、この日、生誕80周年を迎えた故ジョン・レノンを祝福した。

 ポールはジョンと二人で笑っているモノクロームの写真を添えて「僕はこの写真が好きだ。僕たちの絆を思い出させてくれるから。ジョン、80歳おめでとう」とツイート。

John Lennon Happy80

John Lennon Happy 80


リンゴもこれに先立ち「ジョンの80歳の誕生日を、10月9日金曜日に一緒に祝おう」と呼びかけ、「僕はいまだに君が恋しい。平和と愛をヨーコ、ショーン、そしてジュリアンに」と、ジョンとジョンの家族にメッセージを送った。

リンゴ・スター John Lennon80

John Lennon80 リンゴ・スター


また、ジョンの妻でアーティストのオノ・ヨーコ(87)はツイッターで「ジョン、誕生日おめでとう! ショーン、誕生日おめでとう! あなたは私たちの天使、愛してる」と、ジョン、ジョンと同じ10月9日生まれの次男でミュージシャンのショーン・オノ・レノン(45)を祝福した。

yoko ono John Lennon80

John Lennon yoko ono 80



ポールとリンゴ、ジョンの80回目の誕生日を祝福 リンゴ「いまだに君が恋しい」~デイリー

NAドリ・あいうぃるさん、ご連絡ありがとうございます。

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