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ゆめ参加NAブログ with Paul McCartney & NA Dreamers

ポール・マッカートニーから各地の観光まで個性的で気楽な内容、そして、ゆかいな仲間達(NA ドリーマーズ)が集う「ゆめ参加NAブログ」です。 コメント投稿をご希望の方は、ブログ画面の日付の下にある「吹き出し」マークの右側の数字をclickして下さい。自由参加のブログです。
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記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニー&ウイングスのチケット騒動 Part2

記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニー&ウイングスのチケット騒動 Part2

記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニー&ウイングスのチケット騒動 Part2

記憶というのは、エー加減なもので、年月が経つと自分の都合の良いように思い出したり、忘れたりするものです…と、昨日と同じセリフで始まったPart2ですが、今日は、チケットの所在についての話です。

1980年1月にポール・マッカートニー&ウイングスが来日公演をするので、ワクワクしながら購入したフェスティバル・ホールのS席10,000円のチケット。
公演が中止になって、その後、チケットはどうなったのか…それは、昨日のブログ・コメントの通り…即!ウド-音楽事務所に返却し返金して貰いました。


「置いとけば、良かったのに…」とか「価値が上がったのに…」とか、挙句の果ては「ポール・マッカートニーはもう来ないかもしれないので、持っていれば良いのに…」と言われた事もありました。それでも換金したのには当時の事情があるのです。それは…

10,000円は、た!た!た!大金なのです!!40年前の10,000円ってトンデモナイ金額です。
そして、もう1つの事情は…ポール・マッカートニーの公演について、親に話をしていたのです。つまり公演が中止になって言われた(と思うのですが)のは、「そんなチケット買うからこんな目に遭うんだ!」(想像を含む)のような雰囲気が家庭内であった事。
そして、中止になったチケットの価値を誰も考えていなかった…


そんな感じで、確かウド-音楽事務所で換金されるとの新聞広告を見て、泣く泣くウド-音楽事務所に行ったのかな…行って驚いたのは、NA NA NAんと!ウド-音楽事務所でパンフレットが売っているではないか!テーブルに山積み!これは買わねば!と即買いしました。もうこれだけで、ウキウキ・ランランでしたね(笑)。

それからです…今頃知ったのですが、当時ウド-音楽事務所がお詫びに、チケット購入者にパンフレットを郵送していた!との事実を耳にしました!
エッ!?その後、1980年5月に発売されたニューアルバム「McCartney Ⅱ」のオマケに付いていた!?


私には送って来なかったよ!あっ!もしかして、換金した人には送らず、換金しなかった人に郵送したのかな…ん…謎…

ニューアルバム「McCartneyⅡ」を発売日頃に阪急電車・池田駅の近くのレコード店で購入しましたが、パンフレットのオマケなんてなかったよ(怒)!

ポール・マッカートニー&ウイングスの公演に関しての悲喜こもごもは私だけではないはずです。公演中止40周年記念として、嫌な事を忘れる為にコメントをご記入下さい。

晴れ晴れとした気分で、ポール・マッカートニー2020・国立競技場公演を願いましょう

晴れ晴れとした気分で、ポール・マッカートニー2020・国立競技場公演を願いましょう!

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記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニー&ウイングスのチケット騒動

記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニー&ウイングスのチケット騒動

記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニーのチケット騒動1

記憶というのは、エー加減なもので、年月が経つと自分の都合の良いように思い出したり、忘れたりするものです。一昨日の夕食さえも忘れたりする事があるので、年単位になるとほとんど記憶ないのが普通である。
ところが、40年を経過しても覚えている瞬間があります。今日は、その記憶を呼び戻してみました。


40年前の1980年、ポール・マッカートニーのファンとして忘れたいけど忘れる事が出来ない1月となりました。そうです。ポール・マッカートニー&ウイングスの来日公演が幻となりました。
本来なら、日本公演が行われていたはず…でしたが…


来日公演の新聞発表が1979年12月11日(火)でした。
朝日新聞で、この広告を見て「行きたい!」と思ったのです。それから、フェスティバルホールか大阪府立体育館か、座席はどこにすべきか悩んだ覚えがあります。


記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニーのチケット騒動2


新聞紙上でウド-音楽事務所での販売が16日(日)と発表されていたのですが、この時点で私は発売日に行けば良いと思った純真な学生であった。
当時の土曜日は学校があり、授業が終わってから梅田に行くような考えがなかったと思うのです。つまり、発売日の日曜日である16日に梅田のウド-音楽事務所に行ったと思います。


当時、私の周りにビートルズ・ファンはいなかった事もあり、情報はゼロ!コンサートに行った事がない学生でしたので、チケット争奪の緊迫感は全くありませんでした。
つまり、「整理券」と言う言葉さえも知りませんでした。


記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニーのチケット騒動3


そして、16日、ウド-音楽事務所に行く事にした(時間を覚えていないのです…)のですが、梅田まで1時間も掛かるような田舎に住んでいたので、梅田の地形がまるで分かっていなかったにも関わらず、小さな地図を持って、なんとか探して辿り着いたのです。私にとっては大冒険でした。

ビルのあるドア付近に行くと…怒涛の大人達が!皆さん、ポールのチケットを買い求めに来られていたのです。学生のような人はいなかったと思います。
この時に「整理券」を受け取ったのか?…ん…手書きの番号を書いた紙切れを貰ったのかな…記憶が全くありません…


噂では…公演が発表されて直ぐにファンが大阪のウド-音楽事務所に押し寄せて、脅された?為に整理券を発行した?とか…発売前にチケットを販売した?とか…ほんまかいな…事実関係をご存知の方、教えて下さい。

それでも私が販売当日に行ったにも関わらず、チケットが購入出来たのは大阪だったからか…いや…その時の大阪公演は…
1月28日(月)・フェスティバルホールが、S席10,000円、A席8,000円、B席6,000円
1月29日(火)・大阪府立体育館が、S席4,500円、A席3,800円
であったので、フェスティバルの値段の高さに躊躇したファンが多かったのか…


記憶が曖昧な僕の1980年ポール・マッカートニーのチケット騒動4


そんな事がありながら、フェスティバル・ホールの10,000円チケット購入しました。
S席でも最上段のスタンド・最後方だったような…後ろから3列目位だったかな…
もし、大阪府立体育館だったら、ステージに向かって左側のスタンド席でした。
どうして分かったのか言えば、チケットを購入する時に、ウドーの係の方が、「フェスなら、この席、府立体育館なら、この席」と言ってくれたからです。


この時、2万円という大金を財布に入れていたにも関わらず、フェスのS席しか買わなかった自分を後悔しています…と言っても、結果は同じでしたけどね…

この時の後悔した思い出があったので、ウド-音楽事務所でチケットを購入するには、何が何でも整理券を入手する事を覚えました。その整理券が実家に残っていました。

ウド-音楽事務所 整理券


まさか…今もポール・マッカートニーのチケット争奪に苦労しているとは…40年経過しても変わりませんね~(笑)
今日の回想録は、NAドリのKK様から、この事についての話を聞きましたので、思い出が蘇ってきました…ありがとうございます。

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アストンマーティンDB5とポール・マッカートニーと007 ゴールドフィンガー

アストンマーティンDB5とポール・マッカートニーと007 ゴールドフィンガー

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで

昨日のブログで、ポール・マッカートニーが所有していたアストンマーティンDB6の事について掲載しましたが、気になりますよね…そのお値段…「一般的なDB6の倍以上の価格」って…なんぼなんだろうか…とつい大阪根性で詮索する事にしました。
その為に、DB6の前にポールが購入していたDB5について、まとめてみました。



アストンマーティンDB5とポール・マッカートニーと007 ゴールドフィンガー

22歳だったポール・マッカートニーは1964年公開の『007 ゴールドフィンガー』の中でショーン・コネリーが運転していたものと同じタイプの車を購入した。それがアストンマーティンDB5です。

ポール・マッカートニーは、1973年公開の『007 死ぬのは奴らだ』のテーマ・ソング「Live And Let Die(邦題:死ぬのはやつらだ)」をウィングスが手がけたこともあり、この映画シリーズに彼自身が関わりを持っていた。

ポール・マッカートニーがこの車を購入したのは、映画『ハード・デイズ・ナイト』の撮影が終わり、ザ・ビートルズのツアーが始まる直前だった。
1964年にポールが購入したということを意味する‘64 MAC’のナンバープレートを登録完了するのに、3,500ポンドの費用がかかり、『007 ゴールドフィンガー』のプレミア上映後すぐ、その年の9月22日に納品された。ポール・マッカートニーはこの車を6年間所有、走行距離は約64,373kmだった。


1964年にポールが購入したということを意味する‘64 MAC’のナンバープレートを登録


2012年、ポール・マッカートニー所有の1964年製アストンマーティンDB5がオークションに登場した。
予想価格は約3800万円~約4900万円だったが、最終的には344,000ポンド(当時のレートで約4000万円)で落札された。


1964年にポールが‘64 MAC’のナンバープレートを登録

最高出力は286psでボディカラーはシエラブルー、室内にはモトローラ社製ラジオとフィリップス社製レコードプレーヤーが装備されている。(レコードプレーヤー搭載の車って…見たことがない…)
マッカートニーが所有していた当時のシートは音符模様のステッチが施されていたが、現在は新しいレザーに張り替えられている。


1964年にポール・マッカートニーが所有していたアストン・マーチンDB5が再び、2017年オークションに出品され、その結果…当初の予想落札額をやや上回り、約2億円で落札されています。
この時点で5倍…ですか…


現存するボンドカー仕様のDB5はわずか3台のみですが、2019年にオークションに出品されている「DB5/2008/R」は、400万〜600万ポンド(約5億4000万〜8億2000万円)で落札されるとみられています。

アストンマーティンDB5とポール・マッカートニーと007 ゴールドフィンガー MAC64


その人気に気を良くしたのか?2019年、英国の高級スポーツカーメーカー・アストンマーティンは、アストンマーティン『DB5』(Aston Martin DB5)を25台限定で復刻生産し、販売すると発表しました。
価格が1台275万ポンド(約3億8800万円)!


ん…DB6の価格を予想したかったのですが、あまりの高額に頭がクラクラして来ました…
End

参考サイト

レコードも聞ける!P・マッカートニーのアストン「DB5」が約4000万円で落札!

ポール・マッカートニーが所有していた007でもお馴染みの1964年のアストン・マーチンDB5が競売に

ビートルズ強し。P.マッカートニーのアストンは相場の二倍、R.スターのミニは1600万円で落札

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ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで


今日のブログは、車、アストンマーティンDB6についての話です。


クラシックカーの価値を判断するにはヒストリーが大きな要素になる。その点からすれば、ここに紹介するアストンマーティンDB6は素晴らしい。ポール・マッカートニーが所有していただけなく、あの名曲『Hey Jude』のメロディが生まれ、車内のカセットレコーダーに吹き込まれたという、重要なヒストリーが秘められているからだ。それを、縁あって海外事情に明るいフリーランスライター、古賀貴司氏の友人が購入したという。その顛末記をお伝えしよう。

その昔、私は外部編集者として某中古車雑誌社に出入りしていた。その頃、編集部で出会ったのが「フレンチ君」というニックネームがついたエンスージアストのS氏だった。その名のとおり、彼は無類のフランス車好きで、当時でもフランス車を10台ほど所有していたと記憶している。そんなS氏が同じ事業部を去り、インターネット関連会社を起業したことは知っていた。S氏は右肩上がりに事業を拡大させ、気付けばマザーズへの上場を果たした。実はアストンマーティンが好きだとの告白

そんなS氏と近況報告がてら、夕飯を共にすることになったのが2016年のことだった。車談義に花を咲かせたが、意外だったのは"フレンチ君" であったはずなのに、実は昔からアストンマーティンDB5が"夢の車" だと話してくれたことだ。下世話な話ではあるが、上場すれば経済的なゆとりは相当なものになる。

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで1

現に彼は、いつのまにかアストンマーティン DB9ヴォランテや、ベントレー・コンチネンタルGTなども所有していた。このような車名を記すと、なんとなくS氏が"ギラギラ" したIPO長者に聞こえてしまうのは分かる。だが、彼の名誉のために記しておくと、土日も返上して仕事に明け暮れ、唯一の贅沢がカーライフと言ってもいいほど車好きという人物だ。普段のもっぱらの移動手段は電車、もしくは奥様用のシトロンC4ピカソという堅実さも持ち合わせている。

ただ、彼ほどの財力があれば、DB5はもはや高嶺の花ではないことは明らかであった。そこで私は、ヒストリックカー専門店ではなく、UKのアストンマーティン本社にいる知人に連絡を取ることにした。私が直接、アストンマーティン本社に問い合わせたのは、クラシックアストンを取り扱う「アストンマーティン・ヘリテージ(アストンマーティン・ワークスのクラシックカー部門)」の存在を知っていたことが理由だ。数日して「あいにくDB5の在庫はないが、ポール・マッカートニーが乗っていたDB6ならある⋯」との返信があった。

私は、以前CNN で、このDB6の特集(2015年放映)が流れていたことを覚えていた。ポール・マッカートニーが運転中、ふと『HEY JUDE 』のメロディが思い浮かび、オプション装備されていたカセットレコーダーで、それを録音したという逸話が残っている車だった。ポール・マッカートニーが所有していたというだけでなく、この車内でメロディが録音されたという"ヒストリー" は後々、高く評価されることになる。"将来的な価値が見込める" という理由からアストンマーティン側から提示されたのは、一般的なDB6の倍以上の価格で、残念ながらポール・マッカートニー車の購入話は流れた。そしてS氏はといえば、翌週にはネットで見つけたシャンパンゴールド色のDB6 をイギリスから購入してしまった。

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで3

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで4

私がマッカートニー車のことを忘れたころ、S 氏から「やっぱりポール・マッカートニー号を購入した」と衝撃的な連絡が入った。シャンパンゴールド色のDB6を手に入れたあとも、『HEY JUDE』のメロディが生まれた車というヒストリーがずっと気になっていたという。一度は諦めたが、アストンマーティン側から若干のディスカウントが提示され、価格面で折り合いがついたそうだ。いやはや、フレンチ君、いきなりDB6を2台も手にするとは⋯。

日本におけるアストンマーティン正規ディーラーのオープニングに併せて、本社から幹部が来日。S氏が売買契約書にサインする際、私は"紹介者" として立ち会った。

「実車を確認することなく私たちの技術とサービスを信頼してくださって感謝します。そんなSさんの信頼を裏切ることのない整備をしてご納車します」と語ったのちに、"Welcome to Aston Martin Family! " というキメ台詞とともに交わされた握手が印象的であった。

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで2

そして、アストンマーティン側から提案されたのは、マッカートニー号の納車整備の仕上がり確認およびゲイドンとニューポートパグネルのファクトリー見学への招待。そしてなんと「グッドウッド・リバイバル」への参加だった。アストンマーティン側としては、納車整備が行われるニューポートパグネルからマッカートニー号に乗って、グッドウッドまで3時間ほどのドライブを楽しんではという配慮だったのだろう。

ポール・マッカートニーの愛車 アストンマーティンDB6が日本に来るまで~octane


と…言うお話でした…が…この車とポールの話…なんだかややこしいな~DB5の話もあるからNA~
一番上の画像の写真は、DB6?DB5?


因みに、1968年のある日、ポール・マッカートニーはアストンマーティンDB6を運転して、ジョンレノンの息子ジュリアンを訪ね、歌が頭に浮かんだこの瞬間に車のダッシュボードに取り付けられたリール式テープレコーダー(カセットテープ?)をオンにして録音を開始したそうです。

282馬力の4.0リットル6気筒エンジンと5速マニュアルトランスミッションが搭載されていたトンデモナイの車の中で、Hey Jude…ん…浮かぶのですね…

しかし、この日本の方が購入された時には、テープレコーダーは既に取り外されていたんじゃないかな…(?)

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YesterdayとPaul McCartneyと日本、そして…

YesterdayとPaul McCartneyと日本、そして…

Paul McCartney 2018年10月31日 Yesterday

ヒサシブリのブログ更新です。
15日から更新出来なかった間に、今日は1月18日となっていました。その間、ポール・マッカートニー・ファンとして、忘れようとしても忘れられない日がありますね。
それが1月16日…そうです。1980年、ポール・マッカートニーが大麻所持容疑で逮捕された日です。この事に関しては、多くの記事がありますが、このサイトだけ、ご紹介します。


ポール逮捕劇の秘話 極道を更生させた「イエスタデイ」

ガチャ! 手錠がかけられた。

その男こそ誰あろう、元ビートルズのポール・マッカートニーだったから大変だ。日本、本国英国のみならず世界中にそのニュースが駆け巡った。

ビートルズ、そして彼ら4人の歴史は長いものになったが、ご多聞に漏れずスキャンダルも少なくなかった。中でも、ポールが日本で逮捕・収監されたことは、彼ほどの世界的なスーパースターにとっても、ぬぐい難い汚点となったはずだ。

しかし、獄中では思わぬ交流も生まれた。ポールと極道との「約束」である。

1980年1月16日の午後3時ちょっと前、ポールはウィングスを率いて来日公演を行うべく、成田空港に到着したが、219グラムの大麻(当時の末端価格70万円)を所持していたため、大麻取締法違反、関税法違反で東京税関成田支署に現行犯逮捕された(80年1月17日付スポーツ ニッポン、サンケイ スポーツなど)。

ポールの犯した罪状は「大麻の密輸」。これは7年以下の懲役の可能性を意味していた。同日深夜、ポールは警視庁に留置された。10日間の塀の中の生活の始まりだった。

かつて警視庁本部の留置場は二階にあった。当時ポールが収容されていたのは「二房」とよばれる雑居房。一方、同じ時期に殺人の罪を犯し、この留置場にいた囚人にQさんがいた。彼は「五房」の雑居房におり、両者は壁と廊下に隔てられていたが、距離にして数メートルという近くにいた(「獄中で聴いたイエスタデイ」鉄人社)。

82年に日本のロック専門誌「ロッキング・オン」に載った、ロンドンでの松村雄策氏によるインタビューで、ポールは語った。「壁越しの友達がいたのさ。ぼくは日本語がダメで、彼は英語がダメだった。それでコミュニケーションする方法としては、お互いに知っている単語を叫びあうことだった。ぼくは『スズキ、カワサキ』と叫んだ。そうしたら、彼は『ジョニー・ウォーカー』と言った」。

大物ポールにプレッシャーはなかったのだろうか。やはり人間だ。苦しんだらしい。「最初の三日間はとっても怖かった。ほとんど眠れなかった。眠れたとしてもひどい悪夢にうなされた」(2001年4月24日付英デイリー・メール紙)。

そんな中で毎日の楽しみは「体操の時間」と称される喫煙タイムだった、とポールはふりかえる。なぜなら、その時間は他の囚人たちと話すことが許されたからだ。

その際、通訳を務めたのが、学生運動の過激派メンバーだった。ポールは覚えていた。「一人英語がしゃべれる奴がいた。彼は学生で、反社会的なことで囚われていた。彼は大変頭がよく、かなりのマルクス主義者だった」。

ポールはQさんのことも鮮明に覚えていた。「殺人の罪で収監されていた暴力団員(gangster guy)もいた。彼の背中には大きな入れ墨があった」。

Qさんは15年の刑期を終え、現在は関東某所で肉体労働をしながら、畑仕事などをして暮らしているという。その彼が更生したきっかけは、ポールが獄中で歌ってくれた「イエスタデイ」を聴いたからだというのだ。

ポールが出所する前日の1月24日の夜7時ごろ、「私は二房のポールに向けて叫んだ。「ポール! “イエスタデイ”、プリーズ!」。彼には私の声が聞こえたのだろう。「OK!」、そう叫んだ直後、床の板を叩きリズムをとり始めた。それから「イエスタデイ」を歌ってくれた。そのリズムたるや、最高だった。留置係の二人もその時ばかりは何も言わなかった。きっと彼らもポールの歌声を聴きたかったのだろう」。

ポールは「獄中でのアカペラ・コンサート」について次のように語った。「“スキヤキ・ソング”も歌ったよ。(彼は)演歌を歌った。それでぼくは“ベイビー・フェイス”を歌ったら、留置場中の人がみんな拍手をしてくれた」と語った。“スキヤキ・ソング”とは坂本九が唄った「上を向いて歩こう」の英語版である。

ポールとQさんは「約束」をしていた。過激派学生を通してポールは次のような会話をした。「今度遊びに行っていいか」というQさんに対し、ポールの答えは「イエス」。「いいよ。ただしカタギになって遊びに来るのなら空港まで迎えに行くよ」。

ポールのこの言葉を信じ更生したQさん。「獄中で聴いたイエスタデイ」は、殺人を犯した元極道がポールと出会い、獄中で「イエスタデイ」を聴いたことによって人生が変わり、カタギになるまでを記した自伝――である。

【スピリチュアル・ビートルズ】 ポール逮捕劇の秘話 極道を更生させた「イエスタデイ」


この本でも紹介されているように、留置場でポールが「Yesterday」を歌ったエピソードが紹介されていますが、これはYesterdayと日本を語る中で大切なエピソードだと思います。
他にも、ポールがYesterdayと日本で大切なエピソードがあります。
1つは、2013年の日本公演で。「次の曲は福島の皆さんに、地震の被害に遭われた皆さんに捧げます」と静かに歌い上げた事。



そして、もう1つは2018年・10月31日の東京ドーム公演でYesterdayを演奏したのが最後で、今日現在までYesterdayを演奏しておりません。上記画像は、2018年・10月31日の東京ドーム公演でYesterdayを演奏している時のショットです。



Setlistの違いと、アンコールの人文字 in ナゴヤドーム、Paul McCartney

Setlistの違い(両国国技館編)とYesterdayがない公演、ポール・マッカートニー


あのビートルズを代表するポールの名曲Yesterdayをコンサートで演奏しなくなった…しかも、その最後の演奏が日本であった…この事は偶然の一致だろうか…それとも…ポールの頭の片隅に、あの1980年の時の事を思い出す事があったのだろうか…
この真相については、ポールは一言も答えていません。

ポールがEgypt Stationの新曲をセットリストに入れた為?とか…アンコールで盛り上がった流れを途絶えないようにする為?とか…声が出難くなった為?とか…これから新しいポールで行くんだ!との意気込みの為?だとか…まあ、色々なご意見がありますが、実際の所はポールしか分かりません…

このYesterdayについてポールは「僕が14歳の時に乳癌で死去した母への想いを歌った曲」と述べています。亡き母を想う気持ちが自然に曲としてイメージング出来たとは驚きです。
私も、いつかそんな想いが「ゆめ」として表れるのかな…合掌

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